網走は古代北方民族にとっても理想の地でした。「オホーツク文化」「オホーツク文化交流センター」のことをまとめました。
オホーツク文化とは?
5世紀から13世紀頃(約800年間)、オホーツク海沿岸を中心に、サハリン南部から北海道北海岸、樺太、南千島のオホーツク沿海岸部に栄えた海洋漁猟民族の文化です。
五角形や六角形の大きな竪穴式住居で生活をし、独特の文化をもっていました。
同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化です。
続縄文時代
※続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)とは、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代です。
擦文時代
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、北海道で栄えた時代です。 本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とします。
オホーツク人(モヨロ人)はどこから来てどこへ行った?
今から約1300年前、北の大陸から、網走の地にムラをかまえました。
高い航海技術と海獣狩猟や漁場の技術を持っていたので、オホーツクの豊かな海の恵みのおかげもあり、それまで北海道では見られなかった「オホーツク文化」とよばれる独自の文化が発達しました。
そして長く栄えたオホーツク文化は10~12世紀頃に北海道の擦文文化と接触したため、姿を消していきました。・・・とされていました。
ただ消えていったとされる説もありますが、DNAなどを調べると、オホーツク人は、アイヌ民族にかかわった集団もいたということがわかりました。
出典:縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/087/research/1.html
オホーツク文化の特徴
オホーツク文化は、少数民族のニヴフ(ギリヤークとも呼ばれている)から樺太南部で始まった文化で、特徴は、北方民族の生活スタイルを継承していて、北東アジアの影響を受けていると考えられています。
オホーツク文化の遺跡?
遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布しています。
「モヨロ貝塚」http://moyoro.jp/publics/index/8/
網走市に最大の遺跡があります。網走川の河口に位置する遺跡です。
この遺跡の発見がきっかけとなり、それまで知られていなかった、オホーツク人と呼ばれる人々の存在が判明。道内にもオホーツク文化の存在が認められるようになったのです。
「常呂遺跡」
「モヨロ貝塚」の隣町の北見市常呂町
「目梨泊遺跡」
枝幸町
「オムサロ遺跡」
紋別市
DNAで比較-アイヌ人、日本人、縄文人、琉球
「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」によると
神澤秀明(国立科学博物館)
現在の日本列島に住む私達は、形態や遺伝的性質から大きく3つの集団、アイヌ、本土日本人、琉球に分かれます。
それは、日本列島人の大規模なDNA解析が行われた結果からも、推測できます。
オホーツク文化交流センターについて
オホーツク文化交流センターは、地域の市民の方の公民館です。名前が「オホーツク文化」となっていたので、オホーツク文化や遺跡のことなどが展示されているのかな?と思いましたが、地域の方の交流の場所のようです。
オホーツク文化交流センターの施設のあらましは、
オホーツク・文化交流センター(愛称:エコーセンター2000)は、市民の生涯にわたる学習の促進及び芸術文化の振興を図り、豊かな地域社会の形成に寄与する公民館(地域の茶の間)です。
社会教育活動、地域活動、そしてみなさんの集会の場としてご利用ください。
出典:オホーツク文化交流センター
利用時間:午前9時~午後10時
休館日:第1・3・5月曜日(休日と重なるときは開館)
年末年始(12月29日~1月3日)
オホーツク文化交流センター エコーセンター2000
〒093-0072 北海道網走市北2条西3丁目